ジョン・コクトー、鏡の向こう側の世界へ

私の知人にクリスタルボウル演奏家のIさんという方がいて、お会いするといつもジャン・コクトーを連想すると言われます。私自身はジャン・コクトーの名前は知っているものの、その作品に触れたことはありませんでした。

つい最近、恵比寿の映画館でジャン・コクトー映画祭なるものを開催しているのを知り、いい機会だからとジャン・コクトーの世界に触れてみようと。そこで彼の映画「詩人の血」「オルフェ」「美女と野獣」を見て、さらにDVDで「恐るべき親たち」「恐るべき子供たち」やドキュメンタリー映像を見ました。

さらに文庫本化されている小説「恐るべき子供たち」、堀口大学の訳による「ジャン・コクトー詩集」を、おまけに古本でジャン・コクトーを特集したユリイカを購入。これらを合わせてコクトーの世界に浸った訳です。

そこでわかったことは、私は無知だったのですが、彼が映画や詩以外にも、舞台やバレエの脚本などをはじめ、あらゆる芸術に関する分野に首を突っ込んでいたこと。私はそうしたことを全く知りませんでした。特にバレエにおいてコクトーが台本を、美術をあのピカソが、そして音楽をサティが担当という豪華メンバーによる、モダンバレエにおいて重要な「パラード」という作品を作っていたこと。さらにはエディット・ピアフに一人芝居の台本も手がけていたことなども知りました。

実に多彩な活動をコクトーは、していたことがわかりました。さらにはラディケやジャン・ジュネといった作家たちを見いだし、支援していたことも。私はこんなジャン・コクトーを知って真っ先に思ったのは、寺山修司を連想しました。寺山修司も歌人にして演劇人、小説家に、エッセイスト、作詞家とマルチな活動で日本の文化史に名前を刻んだ人でした。その寺山修司もコクトーの影響を受けていたかもしれません。

私はコクトーのことを知るにつけ、コクトーを連想すると言われても足元にも及ばない、かすりもしないなと正直思うのですが、Iさんは何を持ってコクトーと連想したのかなと。わかりませんが、ありがたい問いかけと受け止めています。

そのコクトーですが、どこか神話的な要素が作品の根底にあるように感じています。代表作の「恐るべき子供たち」の姉弟のいびつな関係、黄泉の国に行く「オフフェ」やイメージ映像の「詩人の血」などをみているとそんな印象を持つのです。

そして印象的なのが冥界下り。その入口は鏡というのが、興味深い。「鏡の国のアリス」を見るまでもなく、鏡の向こう側の世界は異次元への入口。日本の三種の神器も鏡があるように、神という超次元存在に対してアプローチするツールなのか?すくなくとも何か特別な意味を鏡に持たせているようにも思います。

鏡は不思議な力を持っている。

鏡を2つ用意してお互い鏡を映すようにするとどうなるか?鏡には対面の鏡が映り、さらに対面の鏡が映したものを反射して映し出すという、まるでメビウスの輪のような無限地獄に陥っていくのです。そのお互いが映し出す像の中に異次元への入口がるのかもしれません。

江戸川乱歩の小説に「鏡地獄」というものがあります。これは球体の内側の全面に鏡を張りつけ、その中に男が入るという話で、男は発狂してしまうのですが、鏡像の無限地獄において精神の正常を保つことができなくなる。もはや狂気としかいいようのない世界です。

鏡は時に危険なのである。

コクトーにおいてはその鏡というのが、大きな意味があるようで「詩人の血」「オルフェ」において、鏡によって向こう側に行くという表現があり、当然CGなんてないので、それをアイデアでとても工夫した表現をしています。

ナルシスは湖面に映った鏡像の自分の姿にひかれ、湖に落ちていったように、鏡はいまこの場所=意識と深い水底=無意識の境界とも見ることができ、鏡の向こう側は無意識の世界であり、異次元であり、冥界の世界、あるいは神々が住む神話的世界。
コクトーは彼の詩的感性でもって、見ることのできない世界の可視化を試みたのかもしれません。コクトーは私にとってなかなかつかみどころがない不思議な作家なのですが、現時点ではそんなふうに感じています。

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